日本で行われている医療の大部分は西洋医学に基づいており、欧米で開発された医療技術を日本が追随することが多い傾向にあります。誤解を恐れずにいえば、欧米で良いと認められた治療は日本でも受け入れられやすいのです。
逆にアジア、アフリカで始まった治療は、あまり評価されません。ところが無痛分娩においてはこの傾向が当てはまらず、日本における無痛分娩は低率です。慈恵病院では年間400人以上の産婦さんが無痛分娩をお受けになっていますが、それでも全体の25%前後に留まっています。一体なぜでしょうか?
その背景には以下のようなことが考えられます。
「お腹を痛めて産んだ子」という言葉に象徴される、無痛分娩は愛情が薄くなるという思い込み。
あえて「思い込み」という表現を使っているのには理由があります。
日本では約20%の赤ちゃんが帝王切開で生まれます。その多くの場合、母体は陣痛を感じないまま手術が実施されます。
もし本当に「お腹を痛めていなければ赤ちゃんへの愛情が薄くなる」のであれば、帝王切開で出産した母子間では愛情が薄くなることになります。その理屈が現実とかけ離れていることは、多くの方にご理解いただけるでしょう。母子間の愛情は、陣痛の有無だけで決まるほど単純なものではありません。
逆に陣痛の痛みで精根尽き果ててしまった産婦さんが、「赤ちゃんが生まれた瞬間、夫も私の母親も『可愛い!』と言ってくれたけれど、私は疲れ果ててしまって、可愛いと思う余裕さえなかった」とおっしゃることがあります。
我が子に初めて会う時に「可愛い」と思えることは、愛情ある母子関係を築く上で重要ですから、むしろ陣痛の痛みが母体に過度のストレスを与える方が問題です。
2回目のお産を無痛分娩にした産婦さんからは、「痛くなかったから、赤ちゃんが生まれてすぐの姿を見ることができたし、可愛いと思える余裕があった」と喜んでいただくことがあります。この体験は、愛情ある母子関係を築くうえでプラスになるものです。
「陣痛の痛みに耐えてこそ母親になる資格がある」「陣痛から逃れると弱虫」という風潮
これはご主人様や実家のお母様、あるいはご主人方のお母様から伺うコメントです。確かに「陣痛の痛みに比べれば、この程度の辛さは我慢できる」という考え方は、人生で直面する困難の際に、自らを叱咤激励する拠り所になるかもしれません。
しかし、痛みに対する感受性には個人差があります。そして人には得意分野と苦手な分野があります。
産婦人科の立場から申し上げれば、過去の事例として「痛いのは苦手だけれど、仕事や家事、育児では素晴らしい力を発揮する」女性がたくさんいらっしゃいました。一方、大きなストレスを感じずに自然分娩を実現した女性が、育児放棄をはじめとする虐待をしてしまうケースもありました。陣痛への対応(自然分娩or無痛分娩)と、分娩後における人生の歩みには相関がありません。
母親学級などの産前教育を受けていない初産婦さんにとって、陣痛のストレスは手の指を切断する痛みに匹敵するともいわれています。整形外科で手の指を切断することはまれですが、事故などで切断された指をつなぎ合わせる手術が行われることがあります。その際に麻酔をしなければ拷問行為といわれ、医師は訴えられるかもしれません。手の指をつなぎ合わせるとき、麻酔は当然の前提です。
ところが同じレベルの痛みであるはずの陣痛に対しては、麻酔なしが当然と考えられたりします。少なくとも日本では多くの方がそう考えているようです。今から200年前までは、麻酔なしの手術が当たり前でした。同様にお産も麻酔なしが当たり前でした。
しかし医学は進歩し、今では麻酔なしでの手術は考えられません。それはお産の領域にも及んでいます。
赤ちゃんの誕生は、妊婦さんだけでなく周囲の方にとっても大きな幸せです。しかし、その前には出産という、ときとして命がけになる仕事が待っています。それをとても不安に感じる女性もいます。
周囲の方には、妊婦さんに「痛みに耐えてこそ」というお話をなさる前に、少しの間立ち止まって考えていただきたいのです。妊婦さんの気持ちをもう一度聞き取ってみてください。ご本人がどのくらい不安なのか、そしてどうするのがご本人にとって良い方法なのか、一緒に考えてあげてください。赤ちゃんの誕生にあたって、もっとも辛い作業を担うのは妊婦さんです。
周囲の方が妊婦さんを支えていただくことこそ、出産後の良好な母子関係に貢献します。
無痛分娩を受け入れる産科医療施設の少なさ
産科医療施設にとって無痛分娩を導入するのは負担がありますので、受け入れ施設は限られています。
分娩管理は母児の健康や命をお預かりする仕事です。分娩中に状態が急変し、場合によっては命に関わることすらあります。それだけでも負担がある中で、麻酔管理も行わなければならないのは、多くの施設にとって大変なことです。
結果として日本では無痛分娩対応の施設が少なく、無痛分娩が普及しない原因のひとつになっています。